分断された「東西の悲劇」
ドイツの話ではありません・・・・・松戸の話です
忘れられている松戸の最大の未解決問題

松戸の商圏・交通動線・環境・対柏・・・・諸問題の原点の解説(地図下)


たとえ「開かずの踏切」といわれても、松戸の東西は赤色の道路で交流していました

民衆駅建設計画進む
45年完成を目標にして
広報まつど 175 昭和39年8月20日
鉄道高架を忘れた駅ビル作り
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松戸の活気の無さは、商圏・環境・交通動線などの諸問題に原因がありますが、元はといえば鉄道による東西分断がその端緒と思われます。
 
高架の東京側から江戸川の鉄橋を越えて松戸に入った線路は平面に下がりますが、昭和40年代の常磐線複々線化の際に松戸側も高架にする事は不可能ではありませんでした。
 
現在の松戸駅舎建設は、千葉駅に次いで県下2番目の「民衆駅」(松戸市および民間の資金による・広報まつど)として計画され、昭和39年、当時の石橋市長を座長とする市民懇談会の当時から高架化は問題になっていました。
 
しかし、駅前の整備計画は、市および地元民間実力者との話し合いの中で、旧国鉄側の駅前広場拡大要求に便乗する地元大地主の利益を優先した区画整理」に方向転換してしまいました。


そのため駅前整備も駅前広場拡大と、その後の駅ビル建設までで止まってしまい、常磐線の高架化による東西交通活発化への途は閉ざされてしまいました。
 
現在では、もはや話題にも上らなくなってしまいましたが、鉄道による東西分断による交通動線の制約と、そのための交通渋滞や商圏確保の困難さが、松戸のかかえる諸問題の元凶ではないでしょうか。

綾瀬・亀有の発展と松戸の衰退

総武線においては高架化は早々と完成し、また常磐線においても地下鉄乗り入れと複々線化を高架化で解決した亀有綾瀬駅前は着々と発展し変貌を遂げました。
とりわけ小菅の刑務所の入口でもあり、レールの枕木を使った臨時駅であるかのような
綾瀬の変貌は、昔を知る者にとってはウソのような話です。

余談ながら、「松戸市内に住む知人の子息の結婚式が綾瀬駅前の式場で行われ、そこに出席した時には何とも言えない気持ちにさせられた。」と仰った方もおりました。

以前、松戸市役所都市整備課の主催した会合時で、市職員の方から「国鉄は、松戸市が出資による駅ビルを作れば、鉄道を高架にする・・・・。」旨のお話があったそうです。しかし、その後それについての話は出ることが無くなってしまいました。
 
旧国鉄の赤字解消を名目に建設された、駅から0分の駅ビル大商店街によって鉄道利用の市民は大きな恩恵を受けており、それはそれで結構な事です。

ところが、人々の近距離交通手段がバスや電車から自家用車に取って代わった現在、鉄路によって分断され、街の東西を結ぶ数少ない動脈が日常的に鬱血している現実を、今一度思い起こすべきではないかと思われます。

かつては「
開かずの踏切」(図面赤色の道)といわれた場所も、たとえ僅かでも血液は循環し商店には活力がありました。
現在、踏切の廃止により主要道路から分断された場所では商業機能は完璧に壊死してしまっております。


江戸川と台地に挟まれ、南北に細長く幅の狭い松戸駅前市街地にあって、車両による東西の連絡が、慢性的渋滞と迂回により、あたかも他市へ行くかのごとく困難な状況を「異常」と呼ばずして何の解決があるでしょう。

地下鉄11号線延伸より重要な常磐線高架

さらには、いつ実現するかも判らず、そのため駅前再開発においても問題山積の地下鉄11号線延伸」よりも松戸駅前の活性化のためには最優先すべき重要事項と認識しなければなりません。
分断された東西通行路

伊勢丹前の踏切〜市民会館
市役所前の踏切〜金山神社
竹の花踏切
角町青柳酒店〜加藤製麦〜千葉大園芸学部
その他歩行者のみの踏切
無数

現在すでに大規模な開発が完了しており、たとえそれが急には出来ぬものであっても、行政主導で検討委員会の実施や専門担当部署の設置によって、市民に具体的な指針を示せるような施策が成されるならば、これこそ次代へ繋げる松戸市民の大きな夢となることでしょう。