宮間前市長個人の刻苦勉励(若き日の市長)と真面目なお人柄は存じております。また「(個人としての)死者に鞭打つ」つもりもありません。
しかし、人情味に溢れた (過ぎたともいえる) 行政手法について、若き政治家、市職員諸君は市民とともに、その行政結果(悲惨なまちづくりの現状)を冷静に判断し、否定すべき現状は勇気を持って否定するべきではないでしょうか。

戦後の松戸市の中で一瞬ではありましたが、多くの市民が松戸に住んでいることを誇りに思ったときもあったのです。
全日本に地方自治ショックを与えた松本市政の5年間とその後の20年を時には思い出していただきたいと存じます。
本町ジャーナル
.
mi
昭和62年1986)頃 (宮間市制時代) のもの
「市長の窓」にみる松戸市政研究

その1

松本清の亡霊 ・ 近づくお盆にちなんで

 広報まつどの目玉、「市長の窓」ほど面白いものはない。
 普通の神経では到底書けぬ自慢を、公の広報を使ってああまでぬけぬけと言える人がいる世の中の面白さを感じるとともに、もっと手柄話をしたくて、うずうずしているような様子や、何とか市民を洗脳しようとするための手練手管を自ら毎月披露してくれて、自分だけが見えないと思ってる市長室が実は硝子張りで、中が丸みえなのに気がつかないでゐるのは市長だけ、というような楽しい想像を市民にさせてくれるからである。
 また、そのバックナンバーを繰ることによって、市長の楽しみのような行政実現のための伏線も手に取るように理解できる。少し注意して読めば、次はなんで失敗するかの予測もできる。

 そして、これは市民にとっても大いなる教育的参考書でもある。
 「上手の手から水が漏る」という諺を、松戸の広報は毎月教えてくれるのである。

 しかし、思えばいつまでも松本清氏の亡霊につきまとわれている人である。
 十三年を過ぎてもまだ先代を懐かしむ声が聞こえる。
 「市長の窓」第一号の出発が 「松本路線と私」 であったことは、市長になった経緯からして当然のことながら、その後も、先代に対するコンプレックスは、四十九年四月号 「すぐやる課精神は死なず」、翌五月号 「笑いと行政」、五十年七月号 「職員一人ひとりの努力で」、と続く。

 しかし、その松本路線から何とか脱皮を図ろうとし、「アイデアを思い付き」 と訳し 「それなら自分は計画的に」と言うところか、「計画行政」 への移行を決意して発表した、五十一年九月号 「長期構想の策定について」 になると、
 「アイデア行政は、よくマスコミに取材されるように派手であり、人気も博しやすい。これに反して計画行政は、計画そのものはいかにすばらしいものであっても、その遂行の過程は元来地味なものといはねばならない」 と、松本行政と違う路線をついに見い出し、その自信がそろそろ松本批判となって現れはじめるのである。

 そして広報をつかい、アイディア行政から計画行政へ (無計画行政へ)、人口増加策から人口抑制策へ (これは本当。人の集まる魅力がない)、開発優先から環境保全へ (実際は自然環境破壊へ)、と自分の政策を宣伝し、すぐやる課にたいしては、市民が言っているという表現をとりながら、「過剰サービス行政で、市民を甘やかしている政策」 と批判をし始めた。

 自分の政策を掲げて選挙という審判を受け、それでついた座ならまだしも、先代の急死によって、「先代の路線を継承する」 ことを表看板にして、かろうじてその椅子にすわった市長は、広報を巧みに利用して自分の広報欄をつくり、松戸をとんでもない方向にもっていってしまったのである。

 首長が変われば政策も変わることは当然のことである。しかし誰がなろうと、町を良くする行政に反対する市民はいまい。

 しかし、町を良くする哲学、ビジョンを持たず、なにか先代と違うことはないか、なにか市長の座に長く居続けられるような方法はないか、ということのみで考えらているとしか思えない行政では、市民はたまったものではないだろう。

 松本行政のすぐやる課は、市民と役所を近づけ、当時近隣から立ち遅れていた松戸市民を目覚めませ、自信をつけさせ、そのパワーをもって、近隣から一歩抜け出した町にするためにに考え出された、「象徴的政策」 であって、すぐやる課の具体的な役割よりも遥かに大きな目的、松戸市民の意識の高揚を目指したもの、と推測されるのである。

 すぐやる課の哲学、その市民意識にもたらしたものを正しく理解しないのか、できないのか、それを、ただ過剰サービス行政だったと批判し、負けるものかとばかりにおし進めた計画行政はサービスどころではない、とてつもない金がかかる、特定な人だけへの、目茶苦茶な大盤振舞行政となって、それを負担する税金へとはね返り、市民を泣かせる元凶となっている。なんのことはない、欲しくもない市長専用のおもちゃを、市民が金を出し、買わされているようなものなのである

 そして市長の人気取りの源、「市民参加の・・・」 「市民との対話を重んじ・・・」 には、へんなものをつくっても 「皆さんが欲しいといったのだから・・・」 という言い訳のネタがしっかりと含められてある。

 「市長の窓」 があまり面白いから一冊の本にしたらという声が大きくなってきたので、ということで出版されたという 「二十一世紀へのまちづくり」 の序文も、「PRの上手な松本氏のように、アイデア行政によってテレビに出たり、雑誌に登場することの少ない私のPRのやり方として、『市長の窓』がつくられた」、というようなことを言っている。

 扇谷正造氏が松本清氏との対談を綴った「すぐやる課太平記」と併読してみるのも面白い。(扇谷氏と松本氏の対談を「市長の窓」と比べること自体無理な話だが・・・)
 「一流ジャーナリストが勝手にやってくれる宣伝」 と 「税金を使って自ら必死でおこなう宣伝」。
.
 「イザヤ・ペンダサンの 『 日本人とユダヤ人 』 という本を開いていたら、政治は義の実現よりも経済の安定を志向する というのにつきあたり、正に同感と感じたと扇谷氏に吹く前市長」 と 「単に嬉しいにつけ、悲しいにつけやたらと涙を流し、涙もろいことさえ宣伝の材料にするかのような現市長」 に見るその政治的感性の対比。

 そして、アイデア市長に負けまいと、知恵をしぼって考え抜いたうえの計画行政も所詮、鵜の真似をする烏で、無計画行政の見本のようになっていることも、「市長の窓」は、現実に実施されたの行政の結果との対比で教えてくれるのである。


 松本氏の死後、氏の借金財政ばかりが強調されて聞かされているが、実体はそんなものではない。
 一見派手で、大きな予算がかかっているような松本行政だが、実はしたたかな財政の効率的運用も計算されていたのである。

 現市長は、「PR好きの松本氏」 の本当の意味は 「少ない予算で、市民に大きな夢と喜びを与え、その斬新さが評判になり、マスコミが夢中で報道し、松戸を有名にした」 であることを理解し、その精神を継承すべきであった。
 久しぶりに読んでみても 「すぐやるか太平記」 は、いまだに新鮮さを失っていない、一般市民にも又市長にとってもすばらしい参考書である(市長が正しく理解できれば幸いである)。


 偉大な前任者の跡を継ぐということは誠にお気の毒なことである。
 だから、人の良い市民や議員は、寛大な気持ちで、少々のミスには目をつぶり、我慢してきたのではないか。
 しかし、「市長の窓」 も、もうすぐ十四年目を迎えようとしいる。御乱心行政の連続が目だち始めた昨今、目を覚まして 「市長の窓」 を読み返すときがきたようだ。


 まもなくお盆の季節をを迎えようとしている。
 松本市政を過剰サービス行政と批判しながら、みずからは税金を使い、部下をつかい、公用車を使っての市民への新盆まわりに忙しい後任者を見て、泉下の松本氏は一体どんな顔をするだろうか。
昭和62年







松戸の一大事は、20年以上(市長就任以前からすると40年以上にわたって)、こうした首長から都市整備に関する行政手法を学んだ地方官僚によって市の中枢が占められているということである。

悲惨なまちづくりの現状
 

きらりと光った松本時代はあまりにも短すぎた。
その後、首長が変わっても、40年にわたるそうした薫陶を受けた松戸の官僚による行政手法は磐石のまま、現在の松戸となった。(本町ジャーナル)


対談ルポルタージュ
 『すぐやる課太平記』 扇谷正造  目次へ

表紙 臼井銀次郎「すぐやる課」初代課長                        裏表紙
産業能率短大出版部 昭和46年6月30日 初版発行



カバー見返し 
目次へ・・・・・・・・








 

千駄堀は泣いている
松戸と職員をだめにした20年
すぐやる課太平記