| 区画整理 |
区画:一定の場所を仕切ること 都市計画などで、土地の区画や道路などをあらためること |
| 耕地整理 |
耕地:作物を耕作する土地、すなわち田畑 土地の利用を増進し、収穫を増加させる目的で、土地の交換・分合、区画・形状の変更、開墾および道路・畦畔・溝渠の変更・廃置、湖海の埋立・干拓または排水・灌漑などの設備の改良を行うこと |
| 広辞苑 |
| 松戸本町の区画整理 |
昭和30年代末から計画が始まった松戸駅前区画整理地区の総面積は21,000坪(69,700平米)。 そして、このなかに2,000〜4,000坪の自地/底地/借家を所有している大地主は5〜6名。 つまり、色鉛筆5〜6本で、地区の大部分の地主別塗り分けは出来てしまいます。 区画整理開始の頃の一丁目(本町) 図面は昭和34年のもの/区画整理が始まったばかりのもので、昔の面影を残した最後のものです。 一般の一丁目町会員(現本町)の多くは、この区画整理は、所有土地の約25〜30%の公共用地を提供し(減歩)、道路および駅前広場を拡幅し、路地、袋小路土地(俗に言うメクラ地所)を廃し、どの土地も公道に面し、中高層化建築物を建設可能とし、近代駅前に恥じない地域とする、いう名目で為されるもものと思っていたようでした。 しかしながら、この区画整理は、本町を推進派と反対派をつくり、本町を真っ二つにしました。 推進派は大地主派。 いままでの低額地代(地主側からみて)しか払っていなかった借地権所有者に、本町外の地域に同面積以上の新地を与えるかわりに、本町の借地権を返還することをもって、大地主は駅前高価格地帯に整理統合された大面積の自地を所有し、当時の松戸には少なかった中高層ビル(3〜5階)を建設、自営または賃貸と、自宅を所有する・・・・ 区画整理の目的は本町の何代も続いた大地主のそうした意向によって行われたようです。 その借地・借家人の土地を整理するために、大地主達はこの区画整理着工以前に、地境を接して所有していた松戸市松戸七畝割ほかの山林を区画整理し、宅地整備し、代換地として準備していました。 そのままでは使いようもない山林の区画整理による処分と、駅前高価格地隊の交換・・・・・それはそれで結構でしょうが、ただ駅前の区画整理事業には、都市計画、都市整備の目的はないも同然だったのです。 区画整理反対派は、25〜30%の減分に堪えられない小規模面積所有地主(10坪の地主は7.5坪〜7坪になってしまいます)と、借地借家で営業を営んできた商店主です。 仮換地の場所に移動させられることにより、従来の建物は建て替えねばならず、そのための地主と契約更新料、地代・家賃の変更等の折衝、また建替えによる営業方針の変更などによる将来への不安は少なくはなかったのは当然だろうと思われます。 徹底的な反対派は、仮換地への移転承諾はせず、強制執行を望みました。 この推進派と反対派は当時の地方政治家の対立問題もあって、町論を真っ二つにしました。 推進派の意を汲んでできた「一丁目区画整理組合」の事務局を担当した松戸市区画整理課の「脅し文句」(と言っていいと思います)は、区画整理ができない時には、「駅前広場を拡幅したい国鉄は駅を移動する」、というものでした。 当時、千葉市は千葉駅前の狭隘かつ、所有者の入り組んだ地域の再開発を諦め、現在の千葉駅に移動したばかりでした。 「移動された駅前がどうなったかは旧千葉駅周辺に行ってみれば解る」という市の発言には、駅前という立地にある町会商店主には、かなりの恐怖感を伴った説得力がありました。 かくて、次第に町内世論は区画整理推進へと移動し、昭和40年代項半だったか、区画整理は完成し、旧一丁目は本町と名称変更されました。 しかし、前述したように、この区画整理は、農地を減分して、より大きな幅員の畔道を作る、農地の区画整理の手法によるものであり、「都市計画」、「都市整備」 の概念はまったく無い、と言っていいものだったのです。 すべては、大地主の土地整理のために行われたもの、と言っていいものでした。 (21,000坪の区画整理のための、移転保証費は、約10億円 【坪当たり47,620円】 程だったように記憶しています。) |
| 注 一丁目(本町)の南側と接する町会/二丁目(伊勢丹まで)の大地主は、減歩を伴い、かつ自地を道路によって分断される区画整理/都市計画は絶対反対で、当時の市長より 「区画整理/都市改造は絶対しない」 との念書を取るにいたりました。 |
区画整理完成後の松戸本町 ![]() このようにして区画整理は完成し、路地は消え、道路幅員は拡幅され、本町は新しいブロックに区分けされましたが、どのように都市計画するかについては、まったく白紙のままの状態で、複雑に入り組んだ借地人/借家人を整理統合して、大きな土地に返還することができた地主は、それぞれがビルを建設し、旧来の家業事業所と居宅を新築、そして、大地主は統合された空地に貸しビル等の建設をしました。 しかし、それは前述のように、駅前をどうするかというマスタープランはないままになされたのです。 その後、ビジョンなき行政責任者と地元政治家、そして目先利益によってのみ動かされる駅前商店主によって、絶望的な施策は、誰も解らぬうちに、つぎつぎと実行されていきました。 しかし、松戸駅周辺の最大の問題、東西分断については、なんら考慮されることはありませんでした。 |
| 鉄道高架の問題は当時も当然ありましたが、松戸市は当時の数億円を出し惜しみ、チャンスを逸し、さらに、JRの複々線化時に、複々線を許可することを条件にすれば、90%のJR負担、10%の地元負担で高架化できる最後のチャンスも逸してしまいました。 以上が「活気のない、汚らしいまち 」 の現在に至る経緯です。 しかし、これは本町の歴史の流れを悔やみ、死んだ子の歳を数えるようなことのためにするのではありません。 歴史を逆転させることは無理なことです。 与えられた現状をのなかで、地域特性を再認識し、直せるべきところは直すという、ささやかながらの本町の行動は、今始まったところです。 |
| 本町ジャーナル |